令和7年 上尾夏まつり開催!!
私は本年も、地元町内での事前準備から始まり、各町内へのご挨拶、県議として開会セレモニー参加のののち地元に戻り、"赤襷"(若衆連合会の神輿渡御スタッフ)として、マイクを握り神輿の音頭取りを担当しました



皆様と、日頃とちょっと違う装いで交流できる貴重な機会。
本年も大盛り上がりでした。
各町内の文化財を今日まで繋いできた先人への敬意とともに、開催に携わった多くの関係者とお越し頂きました皆様に感謝を申し上げます

【上尾夏まつり その歴史】
元々、中山道沿いの町場で行われてきたこの祭りは、昭和30年代に範囲を拡大。
「屋台が町内を練り歩き、夜には手踊り等を催す形式」から、現在の神輿の連合渡御を中心とする形へ変化していった歴史があります。
昭和40年代には、上尾駅西口整備完了を契機に、東口での夜店、西口には櫓を組んで民謡大会なども行う形式に規模が拡大。
昭和48年には、中山道と東口駅前通りの交通規制が初実施、53年のバス迂回運転を経て完全な歩行者天国が実現され、現在に通じる形となりました。
【神輿の連合渡御】
ご当地のような比較的都市化型の祭礼では、「神社の神輿渡御を中心とする形」が一般的といわれるようですが、上尾夏まつりの場合は各町内単位で神輿や山車を保有・運行しているのが特徴で、現在の形式では最も大きな要素は8町内まで拡大した神輿の連合渡御です。
現在のような連合渡御を行う以前の時代には、山車や屋台の曳行が基本だったようですが、費用がかかるゆえ毎年は出していなかった様子。
「山車や屋台を出し、幟を立て、川越や浅草から演芸を呼ぶ祭り(本祭り)」と「神輿だけ出す祭り(陰祭り)」のどちらを催すかを毎年町の寄り合いで決めており、陰祭りの年には若衆が町内会に頼みに行き、神酒所に飾ってある神輿を担ぎ出して渡御をしていたとのこと。
現在では毎年市内外から多くの担ぎ手さんにお越し頂き盛り上がる連合渡御ですが、昭和37年の自治だよりには「5年ぶりの神輿渡御」、昭和47年の広報あげおには「久しぶりに大人の神輿が登場しました」との記載もあり、様々な歴史の積み重ねのうえで今日の盛会があるといえます。
【山車】
昔は毎年解体して保管しており、町内倉庫から部材を出して組み立てて神酒所周辺に飾り、祭りの終わりまでは若い衆が寝ずの晩をしていたと上尾市史にありますが、町内の大先輩たちと話していたところ、ふとこの思い出話が語られ裏付けが取れました。
上町・宮本町・仲町・愛宕町の町会が保有していた山車。
時代によって状態や運行状況には変遷がありますが、本年は当番町内である宮本町の山車(屋台)の上に、昔設置されていたといわれる「鍾馗様」が復活!!
愛宕の日本武尊、仲町の太田道灌公とともに中山道にその姿を見せていました。

私自身、縁に恵まれ、市外のお祭りにお招きいただくことも増えてまいりましたが、地域によっては担ぎ手不足などを様々な工夫で乗り越える青年世代に出会います。
私の町内でも山車を20年ほど運行できなかった時期があったそうで、その当時は川越市から運行のノウハウを持つ方をお招きして復活させた歴史があるとのことです。
現代においても各地域の文化をしっかりと継承発展させるためには、地域を超えた協力が大切だと感じますし、人の集う文化財を残していただいている先輩世代への感謝と、次代へ継承していく責任を改めて感じます。
令和7年の上尾夏まつり、関わった多くの皆様に改めて感謝を申し上げます。





